なぜ離婚してしまったのだろう…後悔しても戻れない愛する子供との別れ
私は完全に妻として母親として、失格どころか非情な女でした。
夫やふたりの子どもたち、そして我が子のように大切にしてくれた義母。
こんな私を愛してくれた暖かいひとたちをことごとく裏切り、自分勝手な振る舞いを続けたあげく離婚に至ったのです。
すべて私のせいでした。
どんな苦しみが待っていても自業自得とわかりながらも、激しい後悔と闘いながらもがき続けてきた話を聞いていただこうと思います。
5歳の娘が、声を出さずに涙を流す
公務員として働きながら年子の子どもを持つ母親といえば、バイタリティにあふれた女性が想像できるかと思われますが私はそうではありませんでした。
子どもたちが乳児の頃から発症したうつ病も悪化し、自分に自信がないばかりに仕事にも行き詰まって、思い通りに過ごしてはくれない子どもたちに対して苛立ちを抑えきれず、怒鳴ったりするばかりでした。
元夫はまるで母親のように家事や育児を率先して協力してくれていました。
抑うつ状態で家族と一緒に過ごすこともできず書斎に籠っている私を見て、気持ちが落ち着くなら出かけておいでと言ってくれたのをいいことに、ギャンブルにホスト遊び、ついには浮気ともいえるデリバリーホストとの遊びを覚えて、家庭のことなど省みない無茶苦茶な女になっていた私は、ある時勝手に家を出て家族と別居していました。
別居してから3カ月ほど過ぎた頃、元夫からちゃんと話がしたいと連絡がありました。
私は離婚しようと切り出されるものと思い込んで、離婚後の約束等をしたためた念書と離婚届を持って家に向かいました。
元夫は私が切り出した離婚の段取りを無言で了承し、子どもたちにもきちんと話すことになりました。
当時娘は5歳、息子は4歳。娘は義母の横に座り、息子は何もわからない様子だったと思います。私は今さらながらに涙が止まらず、元夫が口を開きました。
「お父ちゃんとお母ちゃんは、結婚をやめるんだよ。」
すると、娘は義母の膝に顔を伏せて泣き始めました。別居している時点で幼いながらも何かを察していたのでしょう。
鼻をすする音だけが聞こえ、普通5歳くらいの子どもなら「イヤだ!」といって泣きわめいてもおかしくないのに、ただただ静かに、声を出さず義母の膝で泣いていました。
私ではなく、義母の膝で。
その時に私は、自分のしてきたことの重さに頭を殴られたような気がしました。
5歳の子どもに、黙って泣くことを覚えさせてしまった母親。何という重い罪だろうと。
しかしもう後戻りすることはできず、元夫の弟と私の父に証人のサインをもらって届けを出しました。
自分の首を絞めた念書の存在
私が勝手に作った念書は、主にこのようなものでした。
・元夫と共同名義で建てた家、すべての権利や財産はすべて放棄する。ただし夫婦の収入を考慮して計画したため、毎月10万円を慰謝料・養育費として家のローンが終わるまで、もしくは子どもたちが成人するまで支払う
・子どもとの面会は、子どもたちの意思に任せる。私のほうから会いたいということはしない
当時私はうつ病で病気休暇を取っては復職しまたしばらくして病休を取るような状況だったにも関わらず、元夫が家のローンを、そして私が子どもたちの保育園代や生活費を負担していたことを考えてその額を決めました。
虚勢を張ったのか見栄を張ったのか、もしくは何とかなるだろうと気楽に考えていたのか。貯金もなく何の保証もないのに提示した金額でした。
病気のせいにしたくはありませんが、正常な判断ができていなかったところもありました。
その後2カ月ほどして当時の仕事を退職。どう考えてもその仕事を続けていけるとは思えなかったからです。
また同じ土地には住んでいられない気がして、隣県に引っ越しました。
初めは正社員として就職したものの、精神的に安定せず短期間の間に離職・また別の仕事を探すといった生活で、養育費を送りながら自分の生活をしていくことなど到底できません。そこでたどり着いた答えは、風俗の世界に足を踏み込むこと。
当時31歳だった私はデリヘル嬢として収入を得る生活を始めました。幸いなことに稼ぎはよく、多い日で5万もの給料を持って帰れることもありました。
これで何とか生活していける。店の開店から閉店まで出勤して睡眠時間は長くても4時間ほど、体重は10キロ以上落ちてガリガリに痩せても働き続けました。
でも、うつ状態がひどい時は死んでしまえば楽になるかもしれないと思うこともありました。そうやって思い詰めた時にはリストカットやオーバードーズ(大量服薬)をしてしまい、床に流れる血をうつろに見ながら涙がこぼれ、いったい私は何をしているんだろう。
子どもたちがこんな私を見たらどう思うのだろう。
なぜ私は幸せだったはずの家庭を壊してしまったんだろうと自分を責め続けながら生きていました。
子どもたちが、どんどん遠くなっていく
別居していた頃、そして離婚後もまだ幼かった子どもたちは何かと私に会いたいと元夫にせがんで電話をかけてきてくれました。
「おかあちゃん遊びに行こう!」「運動会だから来て!」と嬉しそうな声に、少し涙をにじませて電話を取っていたのを覚えています。
保育園の運動会や近くの小さな遊園地に4人でいると、周りからは普通の家族に見えていたと思います。
ふたりの卒園式や小学校の入学式にも行きました。私が県外に離れてからも元夫が連絡をくれて、引け目を感じながらもまだ無邪気な子どもたちと写真も撮って。
そんな成長を見るたび元夫と義母が大切に育ててくれていることに感謝でいっぱいでした。
時にはテレビ電話をかけてきて、「おかあちゃん元気??」「おかあちゃんやせた?」とふたりが画面を取り合う姿を見て、泣いているのがわからないように堪えたこともあります。
小学生のうちは運動会、地域のお祭りで毎年子どもたちが参加している踊りを見に行くことが会える機会になっていました。それが私にとって活力になる時間でもあり、逆に後悔を感じる時でもありました。
なぜこの子たちをいとも簡単に手放したのだろう。
こんなにも愛しいのに、なぜあの時私は自分の気持ちにしか従えなかったのだろうと。会うごとにそんな後悔で心がぎりぎりと音を立てているように苦しかったです。
やがてふたりとも中学生になり、お祭りにも参加しなくなって部活に励んでいるようでした。
毎年誕生日とクリスマスには贈り物をしていたので、小学生ぐらいまでは毎回「おかあちゃんありがとう!」と連絡をくれていたのですが…そのうち気がつくとその電話もなくなってきて一方的に送りつけるような感じになってきた時は、ついに来たか、と思いました。
子どもたちもいつまでも子どもじゃない。
まして離れて暮らしている「母親だったひと」という存在になっているかもしれない。
元夫が離婚に至った理由を子どもにどう話しているのかもわからない。思春期になり少しずつ大人の事情が分かってきて、自分たちを捨てた母親の私を恨んでいるだろうか。プレゼントが届いているはずの夜は、そんなことを考えて眠れないこともありました。
当然です。当然のことです。憎まれて罵られても、恨まれて顔も見たくないと、お前なんて私たちを産んだだけじゃないかと言われてもおかしくないだけのことをしてきた母親です。
なのに今さらつながっていたいと思うのは自分勝手なんて言葉だけでは全然足りない話だとわかっているのに。
悔みました。
かつての自分を憎みました。取り返しなどつかないことだとわかっていても、仮に、もしかしたら当時は最低な母親だったけれど離婚などせずに子どもたちと共にあれば、少しはましな母親になれていたかもしれない…。
都合の良すぎる後悔ですよね。わかっています。どんなに非難されても反論などすることはできません。
娘はもう高校生になりました。女である私が離婚して後悔したこと。
自分が経済的に苦しんだことは自業自得とはいえ、やはり大きかったのは愛すべき子どもたちを無責任に捨てたことが後悔として大きく残ったことでした。
子供3人を連れて離婚から自立までのストーリー!住居・保育園・就職探しのリアルな体験談
お子様をお持ちで、なかなか離婚に踏み切れない皆さん。
あなたは今離婚をすると、ひとりでは子供を育てられないと考えていませんか?
また、離婚となると子持ちで専業主婦の方は仕事を探さなくてはいけません。
子持ちで雇ってもらえる職場があるのか、自分ひとりで家事・子育て・仕事の両立はできるのか、、、。先行きが見えず不安な方もいるのではないかと思います。
そこで今回は、離婚後の生活に不安をお持ちの方へ「母子家庭になって失敗も経験し、安息の生活を得られた私の実体験」をお話したいと思います。
当面の仮住まい(実家へ引っ越し)
離婚・別居となると一番に問題になるのが住まいです。
私の場合夫の父(義父)が建てた二世帯住宅に住んでいたので、離婚後出ていかなくてはならないのは私でした。
長男には幼稚園の友達もおり小学校入学も迫っていたので、その近くで家を探そうかとも思いました。
しかし今後勤めることを考えると、子供の急病時などにも手助けしてくれる実の両親の近所の方が気兼ねなく預けられて良いだろうと考え、新居を探す為の仮住まいとして私は一旦子どもたちを連れて実家に身を寄せました。
なぜそこで実家に住みつかなかったのか?
私の両親は孫を可愛がってくれていました。しかし年寄り2人だけの静かな生活に急に子供のキャーキャー騒がしい喧噪が流れ込む訳です。
神経質なところもある親でしたので、たまの帰省とは違い毎日それが続けばイライラされることは目に見えていました。
そんな訳で我が家の場合、両親と同居することは考えず拠点だけ実家に置かせて貰うことにしました。
新居を探す為の仮住まいを実家にしたことは失敗でした。なぜ失敗だったのかは後ほどお伝えします。
保育園探し(実家で申し込み→失敗)
実家に引っ越した私は、始めに保育園探しをスタートしました。
就職活動するにも家探しをするにも、子供を3人を連れて歩くわけにはいきません。
そこでまず、役所のホームページから通園できそうな範囲の保育園をピックアップし、現在の受け入れ状況も確認しました。年度の途中から入園可能で、空きは少なくとも3人兄弟入れる保育園。
平日の昼間園庭開放をしている保育園に子供を連れて出向き、子供を遊ばせつつ園児の様子や先生方の雰囲気、お話しできれば園長先生とお話しをして入所できそうかどうかを確認しました。2か月間くらいの間に10園は伺ったと思います。
その後子どもたちが気に入った保育園へ就職活動中に、一時保育で数時間預けたりしながら様子を伺い最終的に1つの保育園に心を決めました。
意を決しその保育園に申し込み・・・・・・しかしあっさり落ちて入園できませんでした。
なぜ落ちてしまったのか。このままじゃ働けないと思った私はネットの情報を頼りに保育園入園について調べて見ると
「実家暮らしで無職」が入園条件のネックになるようです。
一緒に住んでいる父は現役でフルに働いていましたが母はパート。そして当時の私は無職でした。保育できる人間がいると入所の優先順位が下がります。
また母子家庭でも無職で実家暮らしならばなんとか保育できるだろうと推察されてしまうので簡単には入所できないのです。
そう。保育園とは「仕事したいから入所したい」では入所できず「仕事しているから入所させて」でないと入れないのです。
生活の基盤を作らねばならない母子家庭でも、それは例外ではありません。
そこで私は、保育園より先に「住まい」を先に確定させることにしました。
実家を出て、完全に母子だけで住めば母が仕事をしている間に子守りする人がいなくなり「保育に欠ける」状況になるからです。
新居探し(最低条件を決め、貯金あり→成功)
新居探し、まずは携帯電話やインターネットで物件を調べました。
部屋探しの譲れない条件は「家賃低価格」「子どもOK」「2階以上」「敷金・礼金無し」を念頭に置き、間取りや駅近かどうかはあまり気にしませんでした。
「保育園に近い」も考えましたが、まだどこに入園できるかも分からない状況の為重要視はしませんでした。
ネットで検索→不動産屋へ電話での問い合わせ。これを何度か行い、気になる物件を明確にして赤子を連れて不動産屋に向かいました。
なんとなく独身時代に部屋を借りた時とは違う敷居の高さを感じました。
本当に今の状況で住まいを借りられるのか不安はありました。
母子家庭、3人の子連れ、しかも無職。
子供の騒音問題(子ども1人だけならOKという家もありました)や家賃支払いがしっかりできるのかシビアにチェックされました。
心配していた無職というネックも1年分くらいの家賃を支払える貯金が通帳にあったためクリアできました。防犯面と騒音を少しでも軽減できるかな?と思い最終的に賃貸の鉄筋マンションの部屋を借りることに決めました。
保育園探し(引っ越しし、熱意の申し込み→成功)
住まいを契約した後に、保育園探しを再び始めました。
今度は、住居が決まっているため家から3人の子供を連れて毎日通えるところにしようと考えました。保育園の見学も徒歩圏内の3か所へ行き、「この近くに引っ越してくる予定です」とお伝えし、入所できる可能性を探りました。
多くの保育園に伺ううちに、ほとんどの保育園が新卒の若い保育士さんばかり。
もしかしたら土地柄なのかもしれませんが「長年勤めるにはきついお仕事環境なのかな…?」「そういうところに子供たちを預けて良いのだろうか…?」と不安や迷いも生まれました。
そんな中ある保育園にたどりつきました。そこは建物は古く家からも少し遠かったのですが今までには見なかった還暦間近?と思われる程のベテラン先生たちや中堅どころの先生がとっても多かったのです。
保育士さんが長く続けられるということは、保育士さんにとっても環境がよいのではないかと思いました。給食はおやつまで完全に手作り。
また、20人くらいの生徒に3人の先生がつく(赤ちゃんクラスは子ども6人に、先生3人)とのことで、子供にとっても目が行き届き手厚い保育がされているのではないかなと感じました。
そこを一目で気に入り、役所で入園希望の申請書を出しました。
園の空き状況と条件が合えば、実際に入園となるわけです。しかしその園には空きが2枠しかなくこのままでは3人兄弟のうち1人だけ入れない状況でした。
しかし、ここで諦める訳にはいきません。
お役所仕事とはいえ、保育園を運営しているのは同じ人間です。
私は何度もその保育園に足を運び自分の置かれている状況や、母子家庭でもしっかり働き自立して子供を育てていきたいこと訴えました。
引っ越しも完了し新居に落ち着いた頃、無事に3人とも同時入所が決まった時には「これで働ける」とものすごくホッとしたのを覚えています。
就職活動(現実を見て→即就職を断念)
仕事探しはまず携帯での検索や、駅やスーパーで無料配布されている仕事情報誌を読み漁りハローワークにも通いました。
就職先で重要視したのは、「勤務時間」「休日」「給料」です。
1.保育園での預かり時間内に送迎可能な勤務時間か
2.土日祝日が休みか
3.家族4人が生活できる給料か
まず、保育園の時間を気にするとフルタイム勤務は難しく感じました。卒園後に小学生となった場合、子供の帰宅時間に居られないのは不安だったのです。
とはいえ、一人の稼ぎで生活を支えるには、一定の勤務時間が必要なのも確か。
そして、安定した職に就くことも重要。
しかし現実にはそんな仕事にはなかなか採用されず不採用通知ばかりが続きました。
そこで、いろいろ考えた末ハローワークで勧められた資格の取れる「職業訓練校」へ行き勉強し、今までとは全く違う専門職につくことを目指すことにしました。
職業訓練校→現場研修→そして就職へ
職業訓練校は早期に就職を希望している人が通える学校で、様々な職種を学べる学校が色々なところにあります。目指す職業により、通学期間に資格試験や免許取得できるところもあります。
私が通った職業訓練校の通学期間は4カ月ほどで、1日の授業時間は7時間(そのうち、昼休憩1時間あり)。費用は教材費など20000円が必要でした。
始めの頃は、教科書とノートで完全な座学の時間が続き途中から実技の授業が付加されました。元々、勉強は苦手な方でしたが大人になってからの久しぶりの学校は同級生にも恵まれとても楽しかったです。
そして、その通学期間の最後には職業訓練校の方から研修先が提示され実際の職場体験となります。行き先の職場で認められると、研修先にそのまま就職できる。という仕組みになっていました。
就職前に実際に働いての体験はあまりない仕組みですよね。色々な仕事をしてきましたが、そんな私でも初めての経験でした。
私も職場を知ることが出来、雇用主(になるかもしれない)からも、一緒に働きながら自分を査定されるわけです。学校への通学期間と違い研修先に通っている間は緊張の毎日で胃が痛くなるくらいでした。
そんな1カ月も終わるころ、上司から呼び出しを受けました。
天国か地獄か・・・・・・口を開いた上司から言われた一言は、「来月からも来てもらえますか」とのこと。そう、「採用」されたのです。
世間から離れていた専業主婦生活から→母と子で自立
就職から6年が過ぎました。
私は今でもあの時と同じ職場で働いていて家事・仕事・育児それに加え学校の役員もこなし忙しくも充実した日々を送っています。
不動産屋さん・部屋を貸してくださっている大家さん・保育園の先生方・職業訓練校を勧めて下さったハローワークの方・職業訓練校の先生・職場の皆さん・・・離婚からたくさんの出会いがあり、そして家族の支えもあって今では母と子だけで平穏な普通の生活を送っています。
離婚するかどうかお悩みの皆さん。
何もない白い地図を進むのは、とても怖いことだと思いますが、その先の未来を決めるのは自分自身だと思います。私の離婚から自立までの流れが少しでもご参考になると幸いです。
再婚時、子供の苗字や戸籍はどうする?再婚相手との親子関係は?経験を元に解説します!
私が子連れ離婚・再婚を経験して驚いたこと。
それは私とパートナーと自分との届けを提出しただけでは、子供が自動的に母親と同一戸籍に入ることができないという事。
つまり、離婚時には親権が自分にあっても子供は夫の戸籍に残り、妻の戸籍に入れるには家庭裁判所での手続きが必要なんです。
そして、再婚時には妻の戸籍から妻だけが除籍され、子供は残ってしまう事。
では子供の戸籍はどのようにしたら良いのかというと、実はそのパターンは複数あります。
それに、保育園や学校に通っている子供の場合、気になるのは苗字をどうすべきかですよね。
今回は、子連れ再婚時、子供の苗字や戸籍はどうすれば良いのか?
経験を含めて、パターンごとに分けて解説していきます!!まずは、離婚時に子供の戸籍はどうしていたのか。思い出してみましょう。
離婚時の子供の戸籍を母親の戸籍に入籍する
離婚届けを提出すると妻は旧姓に戻り、新たに自分の戸籍を取得します。
その際、先述したように親権が妻側にあっても、子供は元夫の苗字&戸籍のまま残ります。
そこですぐにでも自分の戸籍に子供を入れたいところですが、まず子と親の苗字が異なる場合、同一戸籍になることができません。
ですから私も、まずは家庭裁判所へ行き「子の氏の変更許可」を申し立て、認めてもらわないといけませんでした。
そして、その許可が下りてからやっと各市区町村の役所へ行き、苗字を揃えることができ、母親の戸籍に子供を入籍できました。
再婚相手と子供が親子関係を構築する「普通養子縁組」と「特別養子縁組」
1、再婚相手と子供が「普通養子縁組」をして、親子関係になる
私たちはこちらを選択しました。
一瞬でも子供が戸籍で独りぼっちになるのが嫌だったので、本当は先に再婚する夫と養子縁組をしてから入籍したかったのですが、その場合手続きは複雑で、まず家庭裁判所まで行き許可を得なければなりません。
しかし、役所の人から婚姻届と養子縁組届は同時にだったら提出できると聞いたので、私たちは同じ日に2つの届け出をしました。
養子縁組届が受理されると、子供を含め、家族皆が夫の苗字になることができます。
そして法律上での正式な親子関係も結ばれ、晴れて夫の実子となります。
それにより、このような事が発生します↓↓
【再婚相手と子供が養子縁組したら発生すること】
・戸籍上の続き柄は「養子または養女」となる
・夫の子に対する養育義務
・子が夫の法定相続人
・将来夫の介護などの扶養義務
また、私の場合は元夫から養育費は一切受け取っていないので関係はありませんでしたが、普通養子縁組では、実の父親からの養育義務は継続しており、養育費や遺産相続などを受け取る権利はなくならないそうです。
また、私たちの子供は当時8歳でしたので親の判断で養子縁組の判断をしましたが、子供が15歳以上の場合はその選択権は子供自身にあり、届け出も子供本人がしなくてはいけないようです。
パターン2、再婚相手と子供が特別養子縁組をする
本音を言うと、実は私はこちらを選択したかったのです。
何故かと言うと一番の大きな理由が、特別養子縁組をすると、戸籍の続き柄が「養子または養女」と記載されなくなるからです。
それにもし再婚相手との間に新たに子を授かった場合、上の子の戸籍の記載は「養子または養女」のまま、下の子が「長男 長女」となってしまいます。
それから、子供と実父の縁が完全に切れ、養育義務や相続権も消滅します。
先ほどもお話したように、私の場合はこちらの点は何も問題がなかったので、より再婚相手と子供が本当の親子関係に近くなるこの「特別養子縁組」を希望したいと思っていました。
ですがこの特別養子縁組、家庭裁判所にて手続きを行いますが、かなり厳しい条件があります。
【特別養子縁組の条件】
・再婚相手(養父)が25歳以上
・子供が6歳未満、または同居していたなどの理由が認められれば8歳未満であること
・子供の実父の同意が必要
・承認までに1年程要する
…などです。
私の場合、上から2つまでは再婚時期を少し早めれば何とかクリアできました。
ですが、夫からのDVが原因による離婚でしたので、どうしても2度と接触することができずに叶わなかったのです。
再婚相手と子供が養子縁組をしない
また、次のような場合には養子縁組はせず、婚姻届のみを提出します↓↓
・もし自分が先に亡くなった場合、夫の扶養義務を子供に背負わせたくない
・子供の苗字を変えたくない
・子供自身が養子になることを拒否する
・夫が子供の養育義務を拒否する
また、養子縁組届は将来子供が15歳になるのを待ってからでも提出できるので、子供の意見を尊重したい場合は、そのような形をとる夫婦もいることでしょう。
こちらの選択をした場合、子供は母親の元の戸籍に入ったままになりますので、当然苗字もそのまま変わりません。ですが、実は養子縁組をしなくても子供の苗字は一緒にすることは可能です。
方法としては離婚時と同じく家庭裁判所に行き、「子の氏の変更許可」を申請すれば良いのです。
そして養子縁組をしないと、子供の健康保険の扶養はどうなるのか?という疑問が生じるかもしれませんが、子供が18歳未満で同居をし、生計を維持できている条件を満たしていれば、扶養に入れるそうですよ。
子供の苗字はどうする?
これまでお伝えしたように、離婚時の子供の戸籍の選択と、同時に浮上するのが子供の苗字についてです。
まとめますと、
養子縁組または特別養子縁組をする→子供は再婚相手の苗字になる
養子縁組をしない→子供は旧姓のまま。ただし手続きをすれば再婚相手の苗字にできる
となります。
保育園や学校に行っているお子さんがいる場合、途中から苗字が変更になることに抵抗がある家庭も多い事でしょう。
私は離婚時には子供がまだ年中でしたので、まだ園児たちからのからかいの心配も少ないと思い、年長への年度切り替えと同時に苗字を変えて生活をさせました。
子供に、夫の苗字から一刻も早く離れさせたかったことも正直な理由です。
そして再婚時は小学3年生。
戸籍上は新しい苗字になりましたが、娘とも相談をして、しばらくは私の旧姓のまま通わせていました。
そして都合で隣町に引っ越しをすることになり、転校をするのをきっかけに新しい学校になってから夫の苗字での生活をスタートしたのです。
戸籍上の苗字の選択は、家庭の環境によって異なります。
ですが、保育園や学校で先生に状況を説明すれば、戸籍上の苗字とは違ってもそのまま対応してくれますので安心ですね。
また養子縁組はしたいけれど、どうしても子供を妻側の苗字から変えたくないという状況の場合、何か方法はないか調べてみたところ、妻が戸籍の筆頭者になって婚姻届を提出するという方法があるそうです。
そうすれば元々妻の戸籍に入っている子供の苗字はそのままでOK。
ただし、再婚相手が妻の戸籍に入ることで苗字が変わることになるので、十分な話し合いと義両親からの承諾も得なくてはならず、なかなか厳しい道だと言えるでしょう。
再婚は子供のことを相手と真剣に考える
このように子連れでの再婚は、初婚の時とは全く違います。
ただお互いが好きで、一緒になりたいだけでは駄目なのです。
特に、子供の将来まで見据えてしなければいけないこの養子縁組に関する話し合いは、お互いが本音をさらけ出し、時に子供も交えて話し合い、家族になる全員の意見が合致するまで続けなくてはなりません。
子連れ再婚に大切なのは、夫婦になる2人ではなく、子供の幸せを考えることが一番だと私は思っています。
ですから話し合いの内容によっては精神的に疲労することもあるでしょうが、これは絶対に曖昧にしたり避けて通ってはいけない道なのです。
今後、子連れ再婚を考えている方へ…。
新しい家族全員で今度こそ、いつまでも続く幸せな生活が送れることを、私は願っています。
実体験!DV夫が子供に与えた悪影響6つ…今でも残り続ける傷跡
夫からのDVに日々耐えている方々が、すぐに離婚に踏み出せない色々な理由。
1つは子供のためではありませんか?
子どもには手を挙げないし、パパの事大好きだし…何より片親にしてしまっては子どもが可哀相。
これは大きな間違いです。
児童虐待防止法では、DVを目撃させることも児童虐待であると定められています。
DVは夫婦間だけでの問題ではありません。可愛い我が子の身近に常に「暴力」がある生活。
しかも、それが両親間で行われているのです。
私は娘が4歳の時に、夫からのDVが原因で離婚をしました。あれから8年も経ち、娘はもうすぐ中学生になります。
悲しいことに、目の前で私が殴られ蹴られ、髪の毛を持って引きずられている記憶は今でもはっきりとあるようです。
そして離婚してからの子育ての中で、娘に元夫のDVが原因だろうと考えられる影響がいくつもありました。
元夫からのDVは離婚から8年経った今でも、私たちを苦しめているのです。今回は、DVが子供に与えた悪影響を6つお話します。
その1.親の顔色を常にうかがう
これは主に幼児期の頃の話です。
娘はパパが大好きでした。
元夫は、機嫌がいい時と悪い時の差が激しいタイプの人です。
娘には手こそあげないものの、普段なら怒らないような事でも、虫の居所が悪いと怒鳴り散らします。
怒られる=怒鳴られる
と認識してしまったため、私から叱られることにも極度に怖がるようになってしまいました。そのため、親の顔色をうかがい、ご機嫌取りをすることを覚えたのです。
私や元夫が常に機嫌良くいられるように平気で嘘をつき、失敗はごまかします。
私が殴られ、部屋が気まずい雰囲気の時は、作り笑いをしながら楽しい話をしてパパの機嫌を取ろうとしますが、そのエピソードの全てが作り話の時もありました。
今でも一般的なレベルで言い訳したり、嘘をついたりはしますが当時は見ていて痛々しいくらいでした。
その2.夜尿症
もともとオムツが取れたのは早い方だった娘。保育園のお昼寝の時もおねしょすることは滅多にありません。
けれど、どんなに気をつけても治らなかったのがこの夜尿症。就寝前は水分を控え、必ずトイレに行ってから寝てもおねしょしてしまいます。
週5回なんて時もざらにありましたし、なんとそれが小学1年生まで続きました。
いけないことですが、私も朝出勤前のバタバタしている時に毎日のようにシーツやパジャマを洗い、イライラしている姿を見せてしまうこともありました。
すると、「ごめんなさい。気をつけたいけどどうしても出ちゃうの。」と泣くのです。
夜尿症はPTSDの症状の1つだそうです。元夫が私に奮った暴力は、娘に精神的な後遺症を与えていました。
その3.爪かみ
お洒落が大好きで、特別なお出かけの日などに髪の毛を巻いてあげたり、ちょっと色付きのリップをつけてあげるだけで大喜びの娘。
でも、1つだけすごくやりたいのに、どうしてもできないお洒落があります。
それはネイルをすること。4、5歳から始まり、これは現在進行形で今も2人で試行錯誤しています。
娘曰く、本当に無意識で噛みたいなんて一切思っていないのに、気づくと爪がなくなっているそうです。
ひどいときは全部の指の爪が5ミリもなく血がにじんでいます。爪かみ防止の苦いマニキュアも10日くらいしか持ちませんでした。
爪かみも心的ストレスから始まることが多いそうです。
その4.自分の殻に閉じこもる
これも今も続いていることです。嫌なことや都合の悪いことが起きると、自分の殻に閉じこもってしまいます。
具体的に言うと、私がいくら何を訴えても“聞こえないふり”ではなく“本当に聞こえていない”ように一点を見つめ、時にぶつぶつと何かを言いながら私をシャットアウトします。
暴力を受けている最中は、元夫の怒鳴り声や私の悲鳴や泣き声が飛び交い、とても3、4歳の娘には耐えられない苦痛だったと思います。
最初のうち暴力はたまにでしたので、娘はそのたびに恐怖で大泣きしていました。
でも離婚間際の2,3日に1度くらいの頻度の時は、私も保身に必死ではっきりとは覚えていませんが娘は大人しくしていたように思います。
きっとその時に自分で殻に閉じこもり、妄想などの世界でその場をやり過ごすことを覚えてしまったのだと思います。
ただこれをされると、本当に私が娘のためを思って伝えたい話も1ミリも伝わらないので、今では本当に対処に困っています。
その5.自分の満たされない欲を暴力で解決しようとする
小学校高学年になると心身の発達とともに、反抗期が訪れます。そのことは理解しています。
ただ娘の場合、時々一切感情をコントロールできず感情のタガが外れると発狂・錯乱状態に陥ってしまうのです。
きっかけはほんのささいなことです。欲しいゲームソフトがあったり、絶対に見たいテレビ番組があったり。
私が日頃の生活態度や学習状況を見てNGを出すと、話し合いで解決しようとせず、ただ感情を爆発させ大声で喚き散らします。
時に母親である私を脅し暴れ、刃物を持ち出して私が認めるまで敵意を剥き出しにするのです。
毎回ではありませんが、年に数回このようなことが起きています。
時間が経ち、落ち着いてから何故あのような行動を取るのか問うと、
「自分でもわからない。例えるなら、心の中が急に真っ黒になって、どうなっても構わない気持ちしか出なくなる。」
と言います。
自分の思い通りにならない時に、感情の爆発と暴力で人の心を支配していた、元夫と全く同じやり方です。
こうなってしまう前に、もっと彼女の心のケアをすべきだったと悔やんでいます。
同じ血が流れているからとか、そんなことではないと思います。
やはり幼少期に頻繁に目の前で起きたことが、強烈に娘の心に残っているのです。
その記憶が自分が大声を出した時に呼び戻され、今起きている目の前の嫌な事と、当時とても嫌だった気持ちが混同し、自分でもコントロールできない状態になってしまうのだと思っています。
その6.消えないDV夫との最後の記憶
私は最後、元夫から逃げるように娘を連れて実家に帰り、そのまま調停離婚をしました。
ですので、大好きなパパとの別れは突然で、その後1度も会うことなく今に至っています。
4歳でしたのでママに対する暴力は良くないということは理解できますが、それとパパに2度と会えなくなることが何故なのか結びつかなかったと思います。
…最後の日のことを少しお話しますと、激しい暴力から逃げるため裸足で逃げた私をそのまま締め出した元夫。
もう限界だと思いました。
いつもお酒が深く入っているので、一度寝たら起きないだろうとその日のうちに家を出ることを決意。
数時間後、鍵がなかったので一か八か。
1階の居間の窓を軽くたたいてみたら、当時4歳の娘が2階の寝室からバレないよう電気をつけずにそっと真っ暗な階段を降りて、部屋のカギを開けてくれたのです。
そのまま、まず一番に娘を車に乗せ、最低限の荷物をまとめて家を出ました。
そのことを娘は今でも鮮明に覚えているようで「私がママを助けたんだよね。」とたまに話します。
パパとの最後の記憶は私を閉め出した後、再びお酒を飲みながら「お前は早く寝ろ」と言った怖い顔だそうです。
保育園のお友達や先生と、何のお別れもできないまま。パパには怒られたまま。
4歳だった娘は、ママに対する暴力は良くないということは理解できるけど、それとパパに2度と会えなくなることが結びつかなかったと後に言います。
そんなモヤモヤした思いを「ママを助けた」と自分に言い聞かせることで納得しているのだと思います。おそらく娘にとっては一生忘れられない、未練の残る別れにしてしまいました。
終わりに…
ご覧いただきありがとうございます。
このように、たった4年間…物心ついた時から考えるともっと短い期間に受けた心の傷が、今でも娘に様々な悪影響を及ぼしています。
子どもは新しい環境にも柔軟に対応できますし、いつも母親の幸せを願ってくれています。もしも継続的に子供の目の前で暴力を受けている方がこれを読んでいたら…。
はっきり言って、離婚を決意してから成立するまでの数か月間、今までで一番エネルギーを使いました。簡単なことではないと思います。
けれど先述したような悩みや壁にもぶち当たっていますが、現在はとても幸せです。
この記事が離婚に踏み切れないDVで悩んでいる方にとって、少しでも離婚をする勇気を持つきっかけになれたら…と思っています。