私はまさか自分がふたりの子どもを授かるなど夢にも思ってもいませんでした。結婚すらしないと思っていたからです。なぜかそう思い込んでいました。
それが元夫と出会ってから私は妻へ、そして母親になりました。しかし母親になりきれなかった私は、その大事な子どもたちの手を振りほどくことになってしまったのです。
今回はその子供たちが生まれたころから現在に至るまでの話をしたいと思います。
私にとっての子供の存在
元夫と結婚して、5月に長女を出産。その翌年の12月には長男を出産しました。
幸い私は母乳が余るほど出たので卒乳までミルクなしで育てることができたし、子どものぐずりもおっぱいでなだめたりできたので乳児のころは気持ちにも余裕がありました。
育児につらさを感じ始めたのは、おしゃべりができるようになりわがままを言いだした頃かと思います。
おとなげなく子どもと同じ土俵の上に立ってムキになってしまう私はどんどんストレスがたまるようになりました。
好き嫌いを言い始めて食事に苦労し、テレビばかり見てなかなかお風呂に入らない、寝ようとしないなど…。
仕事も早くに復帰していたのですが、産休育休を繰り返した自分に焦りや苛立ちを感じ、家に帰れば言うことを聞かない子どもたちがいて。
自分の時間が取れず精神的に追い詰められていって、不眠症から始まりついにうつと戦うこととなってしました。
こんなことがありました。
少し私が落ち着いていた日に元夫が飲み会に出かけていて、深夜0時頃になっても寝ようとしない子どもたちに耐えられず、私は家から飛び出してしまいました。
「おかあちゃんどこ??」と半泣きで探す息子に「大丈夫。おかあちゃんぜったいどこかにいるから」とやりとりが聞こえる中、わたしは丸くなって震えながら耳を塞いで泣いていました。
ついに泣き出した息子の声が聞こえ、「なかないで。おねえちゃんまでなきそうになるから」という会話が今でもずっと忘れられません。
主人に電話して帰宅してもらい事なきを得ましたが、部屋に戻ると子どもたちがいっせいに抱きついて泣いていて、ごめんね、ごめんねと私も号泣して強く抱きしめたことがありました。
けっして、愛していないわけではないのです。
しかし元夫にこどもたちのことはすべて預け気分転換という名の夜遊びにふけるようになり、そのうち迷いもなく別居を選んだ私は、ひどい話ですが愛すべき子どもたちの存在を忘れかけていたように思います。
「おかあちゃん」には変わりない
離婚するまでの数ヶ月と離婚して3ヶ月ほどは、別居していた家で私は暮らしていました。
車で30分ほどの距離で、子どもたちは5歳と4歳。まだまだ母親が必要な年頃です。
頻繁に電話があり(おそらく元夫にせがんでいたのだと思います)「おかあちゃん、いつもの遊園地行きたい!」「おかあちゃんの家に泊まりたい!」と言って、ほぼ毎週のように会っていました。
もちろん元夫も一緒なわけで、まるで何事もなかったかのように4人で過ごす日が多かったです。
しかしその間私は引っ越す予定の土地で就職活動していたので、会えないことも増えてきました。
ある日、私が面接のため隣県で滞在していた時、元夫から連絡がありました。
家族3人で嘔吐下痢症にかかってしまい、どうにもならないから助けてほしいとのこと。
急いで駆けつけると真っ青な顔の元夫、ビニール袋を抱えて泣いている息子、トイレには便座に座ったまま吐いている娘がいました。
薬を飲んでも吐いてしまう子どもたちを連れて小児科へ行き、吐き気止めの点滴をしてもらった後は口を潤す程度の量から少しずつ水分を取らせて、元夫には体を休めてもらうようにしました。
吐いてしまった後を片付け子どもたちをなだめながら白湯に近いおかゆを作って、その日の晩は久しぶりに子どもたちと眠りました。
翌朝、少し回復した様子の元夫が「助かった。ありがとう」と言って子どもたちと3人で見送ってくれた時、お礼なんて言われるのはおかしな話だし、またこの人たちを捨てて自分勝手な生活に戻っていく自分へのどうしようもない罪悪感に髪を引きずり回されるような感覚を覚えました。
そしてこんな非情な私にも、「おかあちゃん」としての思いは消えてはいないのだと実感する出来事になりました。
誕生日とクリスマスの贈り物
離婚後小学校低学年ぐらいまでは時々電話があり、ふたりの誕生日とクリスマスには必ずプレゼントを贈っていたのでその夜はすぐに連絡をくれたものでした。
テレビ電話で話すこともあったので、ふたりが元夫のスマホを取り合うようにして話してくれました。
みんな元気にしてる?学校はどう?などとありふれた会話でしたが、子どもの方から電話を切るまで、私から切ることはできなかったです。
贈り物をするときは必ずメッセージカードを添えていました。
クリスマスの時にはわずかながらのお年玉も一緒に送るようにしていて、それは今でも続けています。
それがいつからだったか、連絡が途絶えるようになりました。
子どもたちも大きくなるにつれて、どうしておかあちゃんはそばにいないのか、なぜ私たちが離婚したのか。そう疑問に思って元夫に尋ねていたかもしれません。
母親のいないことを友だちに何か言われているかもしれない。学校の行事や授業参観などでつらい思いをしていて私のことを恨み始めたのかも知れない…。
それはごく当たり前のことで、私には嘆く権利などありません。
そもそも別居や離婚した時点で、当時はまだよくわからなくても「自分たちを捨てた母親」と認識されて当然のことを私はしてしまったのですから。
そうして連絡はほぼなくなり、毎年夏に開催される子どもたちが参加していた大きな祭りには会いに行って、時間があれば少し話ができるぐらいの間柄になっていました。
子どもたちとの関係はやはりこうやってどんどん離れていくに違いない。
でも私の犯した過ちは消えることはなくて、これがその罰なのだと情けなさをかみしめていました。
娘とのやり取りの始まり
そのうちふたりは中学生になりました。元夫の計らいで小学校の入学式と卒業式には参加させてもらえて、一緒に祝うことができたのはありがたかったです。
娘が14歳の誕生日を迎えるころ、私はどうしても娘の気持ちを知りたくなりました。
あの子は私にどんな感情を抱いているのか。恨んでいるという言葉でもいい。もう会いたくないという返事でもいい。私は誕生日のプレゼントとともに手紙を書きました。
おかあちゃんはあなたたちを捨てるようなことをしてしまった。あなたはおかあちゃんをどう思っていますか。こんなふうに手紙を書いたりすることは嫌なことでしょうか。
といったような内容をしたためて、どんな答えでもいいから教えてほしいと、私の電話番号やメールアドレス、LINEのIDなどあらゆる連絡方法を書いて送りました。
もちろん返事を期待してはいけないとわかっていましたが、そうせずにはいられなかったのです。
誕生日が過ぎて1週間ほど経った頃だったと思います。
知らないアドレスから「○○です!」という娘の名のメールが届きました。
「遅くなってごめん!」とまるで何事もなかったような会話が始まりました。その日は話の核心は聞けずに終わったのですが、翌日にもメールをくれたのでついに聞いてみることにしました。すると返ってきた返事は、
「恨んでなんかないない!こうやって話できるのが嬉しいよ!」とのこと…涙が噴き出しました。さらに「毎日でもメールしたいよ!」とまで言ってくれ、思いもしなかった答えでした。
そしてメールからLINEでのつながりに変わり、部活のこと、友だちのこと、進路のことなどたくさん話してくれるようになりました。
「めんどくさいからお父ちゃんにはLINEしてること黙っといて~」と言っていますが、LINE通話で話すときには画面をオンにしていたら息子も顔を出して、最近では「ヒゲ生えてきた!」と見せてくれたりしています。
最後に…。
私は本当に幸せ者です。母親としての義務を投げ出し寂しい思いをさせてしまったのに、元夫と元義母が素直な子たちに育ててくれたおかげで私はこうしてまた子どもたちとつながることができました。
離婚の理由になった男性とうまくつきあうこともできず、その後投げやりな人生を送っていた私に生きる力をくれたのは子どもたちでした。今は高校生になった娘と、私が用事で近くまで行った時には連絡して会うこともあります。
私はまだ体調が整わず通院を続けていますが、そうやってつながってくれている子どもたちのためにも元気を取り戻して「おかあちゃんも頑張ってるよ!」と胸を張って言えるようになりたいと思っています。